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伸工貿易株式会社の成り立ちと歴史
2023/1/17
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新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。

 

お陰様で弊社は令和5117日をもちまして、創立57年を迎える運びとなりました。

 

これもひとえに皆様方の熱いご支援と温かい激励の賜でございます。ここに心より感謝を申し上げます。

 

いま一度創業の精神に立ちかえり、より一層のサービス向上に努めてまいります。

 

今後とも倍旧のお引き立てを賜りますようよろしくお願い申し上げます。

 

追伸:この機会に弊社の成り立ちと歴史をご紹介したいと思い、下記に纏めてみました。

少し長くなりますが、ご一読いただけましたら幸いです。

 

伸工貿易株式会社

代表取締役 野澤 拡

 

 

 

伸工貿易株式会社の成り立ちと歴史

 

弊社は、先代社長の野澤哲が1966年に創立した会社で、当初は合成ゴムを扱う商社(米国Fireston Tire and Rubber Company社の代理店)としてスタートしました。なぜ化成品を扱うことになったのか、なぜ現在は大型トラック・トレーラー業界の業務を行っているのかを知って頂くために少し時代を遡ってみたいと思います。

 

創業者の哲は1931年(昭和6年)28日に新潟県の柏崎市で生まれました。幼少の頃に遠い親戚に大きな船を持ち、海外(インドネシア)に行っては日本の天産品(衣服)などを売り、帰りには現地の南洋ならではの天産品を買い付けて日本に持ち帰り、販売することを生業にしていた「越後屋」と言う屋号の会社を経営していた伯父がおりました。哲はその人に憧れ、自分も大きくなったら海外に行って商売をしてみたいと思うようになり、小学生の時からNHKのラジオから流れる英語の教育番組を聞き、独学で英語を学び始めました。

 

旧制中学の柏中に進学した頃、太平洋戦争の戦況悪化と共に学生たちも軍需工場に工員として動員され、旋盤やボール盤など使い銃身などの武器の製造を行ったそうです。後に、同窓会で当時の同窓生が集まると、たいていの友人たちは「あの時代は暗黒だった。」と言って嘆いていたそうですが、哲はそうは思わなかったそうです。「人生、何事も経験だと!」この時に身を持って学んだ旋盤技術などの工作機械の扱いや知識が後の弊社のトラック・トレーラー事業に大いに役立ったのだと後に良く話してくれました。

 

旧制中学の柏中から現行の高校に制度が変わった新潟県立柏崎高校を第一回期生として卒業後、東京に上京して得意の英語を生かして国立東京外語大学のマレー語学科に進学しました。マレー語(インドネシア語)を専攻したのは幼少の頃の親戚の「越後屋」の伯父の影響でした。

 

大学卒業後は生ゴムを取り扱う「軽工物産株式会社」に就職しました。生ゴムと言えば、東南アジアのインドネシアが原産地ですので、英語力とインドネシア語の語学力を買われての入社でした。入社してインドネシアに生ゴムの買い付けに出張した際には、スマトラ島の一丁目一番地に所在していた言う、「越後屋」の事務所ビルがあった場所を訪ねたそうです。確かにそこにはかつて「越後屋」という屋号の日本企業の事務所が存在していたことを自分の目と耳で確認して来たそうです。

 

「軽工物産」は生ゴム取引の商社でしたが、これからは必ず合成ゴムの時代が来ると、その当時の社長の谷沢氏に直訴して、許可を戴いた哲は渡米してFirestone Tire & Rubber Company社との代理店契約を結び、合成ゴムの輸入を開始することになりました。1955~60年当時のことです。

 

ファイヤストーン社の合成ゴムの仕事で米国に出張の機会が多かった哲が見たものは、隊列を組んで大陸を走るコンボイ(大型トラック、トラクターとトレーラーの牽引車両による輸送隊列)でした。その当時の日本はまだ舗装道路もほとんどないような時代でしたが、必ず30年後には日本にもこのような大型トラックや牽引車両による輸送が一般的になる時が来ると確信したそうです。渡米の際にはファイヤストーン社の担当者が哲にいろいろな業界の人を紹介してくれました。その中に後のトラック・トレーラーの仕事に繋がる出会いがありました。

 

しかし、合成ゴムの輸入の仕事が順調に進んできた中で、大事件が起こりました。それは「軽工物産」の突然の倒産でした。哲がファイヤストーン社に国際電話とテレックスで倒産の旨を伝えたところ、「我々は会社と仕事をして来たのではなく、Mr. Nozawa、君と仕事をして来たのだ。もし君が会社を立ち上げるなら、その会社にファイヤストーン社の代理権を与えよう!」と言ってくれました。

 

そこで先代が一念発起して立ち上げたのが「新軽工物産」で、1966年に「伸工貿易株式会社」と社名を変更し、今日に至ります。もちろん、設立当時はファイヤストーン社の代理店として合成ゴムおよび樹脂を輸入し、国内の化学品を扱う企業へ販売することが業務の中心でしたが、仕事を進めて行く中でトラック・トレーラーの業界への足がかりが生まれました。

 

その一つは日産ディーゼル工業(現UDトラック)様との取引でした。どのようにして取引が始まったのか・・・

 

皆さんは新宿の「飲んべい横丁」を知っているでしょうか? 4~5人が入ればいっぱいになってしまう小さな飲み屋が集中していた場所です。この中に先代の行きつけだった小さな居酒屋「おけさ」で良く同席する機会の多い顔見知りの常連さんが居ました。ある日、この方と名刺交換をしてお互いの仕事の話をしました。(この方のお名前を仮にT氏としましょう)T氏は日産ディーゼルの購買部の部長でした。この名刺交換から数日後、伸工の事務所にT氏から突然電話が掛かって来て、「野澤さん、ちょっと相談したいことがあるので、上尾の工場まで来てくれないか?」と・・・  

 

その当時、日産ディーゼルではディーラーに納入されるまでの期間、完成車(トラック)を車両プール(と言うと格好が良いのですが、実はただの野原)に雨ざらしで保管をしていました。この保管期間中に直射日光がタイヤに当たり、タイヤ表面に劣化が起こり、お客様への納車時には新車にもかかわらずタイヤにひび割れが入り、表面が白っぽく変色すると言う不具合が起きていたのです。

 

T氏、「伸工さんはファイヤストーン社の代理店だから何かタイヤ表面を保護する適当なケミカルが無いでしょうか?」

 

先代、「任せてください!」ということで事務所に戻りFirestone社に連絡を取り、サンプルの手配を取りました。

 

サンプル入手後に日産ディーゼルを再び訪問し、T氏を始めとする技術部の方たちと共にサンプルの薬液を数台のトラックのタイヤ表面に刷毛で塗布したそうです。(今の時代では考えられないことですが、細かいMSDSのようなスペックシートの提示も無く、実験室でのテーブル試験も無くいきなり現車に塗布とは驚きです・・・)

 

それから一カ月ほど経ってT氏から電話が掛かって来て、「野澤さん、あれいいよ。購入します。」との嬉しい連絡でした。

 

この様にして「FSR-23」と命名されたFirestone社製のケミカルを販売したことが弊社とトラック業界との取引の始まりでした。因みに、「FSR-23」とは「ファイヤ・ストーン・ラバー 日産」の意味でした。命名した先代のユーモアがうかがい知れます。

 

その当時、海の向こうでは船便による国際貿易の輸送方法に大きな変化が起こりました。それは海上コンテナーの導入です。米国での海上コンテナーの製造は船会社のSealand社とトレーラーメーカーのFruehauf社が共同で行っていました。

 

日本でも海上コンテナーをトレーラーメーカーが作ることになりましたが、雨風や塩水を浴びる過酷な条件の海上コンテナーの内部への水の侵入があってはならないことから接合部には特殊なシーリング材が必要でした。そこでFirestone社の代理店として伸工貿易に声が掛かり、米国のSealand社とFruehauf社が使用していたものと同じシーリング材をFirestone社から輸入して販売をしたことでトレーラーのメーカーとの取引の道も開けました。

 

この間に弊社は先代がFirestoneの仕事で渡米した際に知り合いになった方々の会社の中で連結車両(トラクターとトレーラー)の電気的接続に必要な7極ソケットとプラグ、空気(エア)的接続に必要なグラドハンドのメーカー(Berg社、Sloan社等々)の代理権を取得しました。

 

連結車両にはもう一つの大事な接続があります。それはトラクターとトレーラーを連結する機械的接続です。そこで、弊社は米国のトラクターとトレーラーの連結に必要な第5輪(カプラー)の代表的メーカーのHolland Hitch社の子会社であるHolland Pacific Hitch社と伸工貿易との間で50/50の出資の合弁会社の「日本ホランド」を1971年に設立しました。伸工貿易の設立から5年目のことでした。

 

伸工貿易(日本ホランド)は数人しか社員が居ない小さな商社ですので、第5輪を自ら製造することはできません。そこで1974年に国内の第5輪メーカーの「各和精機」様(現ソーシン)と技術提携を結び、各和の天板にHollandのジョー機構を組み込んだ所謂ハイブリッド型の第5輪の国内製造を開始しました。同時に第5輪の主要部品(ジョー、ジョーピン、ブラケット等)の米国工場への輸出も始まりました。その当時はドル円為替レートが\280 ~ \260の時代でしたから、日本製の質の高い鍛造技術と機械加工技術で作られた部品を安価で得られることでHolland社が、大量生産で製造コストが下がる中から自社に必要な数量の部品を安価で仕入れられることで各和精機が、完成した部品をコンテナーに載せて北米所在のHollandの各工場に輸出することで伸工貿易が、これらの3社がそれぞれに利益を得る「ウイン・ウイン・ウイン」の商システムが確立されました。この部品の輸出の仕事は為替レートが\180程度に円高が進んだ1980年代後半まで続きました。

 

1988年のHolland社の組織運営拡大に伴う組織変更で「日本ホランド」はHolland Hitch社 本社との合弁に変更しました。更に2006年のドイツのSAF社とHolland Hitch社の合併に伴い、2007年に社名を「日本ホランド」から「日本SAFホランド」に変更して現在に至ります。

 

伸工貿易は、ファイヤストーン社の代理店として化成品を取り扱う商社としてスタートしましたが、上述の様な変遷を経て大型トラック・トレーラー業界との取引の割合が会社全体の7割を占めるほどにまで拡大しています。もちろん弊社のオリジンである化成品の取引も継続拡大しており、近年では特殊なSBSSEBS(合成ゴム)、スレート・フレークス(屋根用素材)などの扱い量が拡大しています。この他にも製パン用の天板、天然素材のボタン材料なども扱っており、ニッチなマーケットにも仕事の幅を広げています。

 

2006年に先代を引き継ぎ二代目として小職(拡)が代表取締役に就任しました。更なるお客様ヘのきめ細やかなサービス向上と業務拡大を図るために2014年に埼玉県に130坪の自社倉庫「朝霞物流センター」を開設しました。業務拡大に伴い手狭となったセンターを2017年に現在の600坪の「上尾物流センター」に移設しました。また同年、本社も渋谷区宇田川町から現住所(渋谷区渋谷)に移転し現在に至っております。

 

現在の本社事務所はJR渋谷駅から徒歩5分ほどの宮益坂にございます。上尾の物流センターには弊社取り扱いの各種製品が在庫してございます。お近くにお越しの際には是非お立ち寄りください。社員一同で皆さまのお越しお待ちしております。

 

以上、よろしくお願いします。

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